松永の下駄商人だった丸山茂助は、燃料として使われる雑木の中から桐に似たアブラ木を用いて下駄を安く製造することを思い立ち、1878年に下駄生産を開始。機械化して大量生産したことで劇的に値段を下げた丸山の下駄は大ヒットとなり、他社も参入した結果、松永は下駄の国内最大の生産地となった。
広島の建築 arch-hiroshima|旧マルヤマ商店事務所
下駄屋の主人丸山茂助が、塩を運ぶ船の帰路の空荷に着目したところから始まった。この片荷に山陰の雑木アブラギリを乗せて格安に仕入れ、入り江に筏(いかだ)に組んで貯木し、入用な分だけ製材して桐(きり)下駄に替えたのである。まさに塩が松永下駄を生んだといえよう。
松永下駄が全国に普及するようになったのは、桐下駄に比べ、雑木が原料で安価であり、しかも見かけは桐下駄に似て、なおかつ強く永持ちするからであった。そして原木の製材から下駄への小割りに至るまで、早くから機械化したことで、大量生産が可能となり、仕上げだけが手仕事だが、加工も分業化した。これに応じて、工場が塩田の入り江の周辺に立ち並び、ついに下駄の町松永を形成したのである。
原木もアブラギリから、北海道のツブやドロノキ、さらにサハリン、中国東北部やアメリカ大陸へと広く海を越えて材木を求め、雑木による格安の大衆下駄の生産を図り全国に売り出した。
また生産様式の変化に即して、下駄に限らず広く履物の生産へと転進したが、今も素足に履く下駄のさわやかさと解放感とに支えられて、松永下駄は多くの人に愛用されている。