今の松永湾は昔「袋の海」と呼ばれていた
松永湾は遺芳湾(いほうわん)とも呼ばれていた。詩的な表現で菅茶山の命名
今の遺芳ヶ丘小学校はここから名づけられました。
まあるく囲まれた入江 海岸に面して小さな村々が静かに息づいていた。袋の海は静かでまるで湖のようだった。
1660年、水野勝成公はすでに亡くなっていた。
福山藩藩士、本庄重正(ほんじょうしげまさ)はこの静かな海を眺めながら塩田にぴったりだと思っていた。
本庄重正は江戸で山鹿素行(やまがそこう)と出会い兵学をおさめ、砲術で本庄流と自称するほどの独創をあみだした
山鹿素行との出会いで赤穂藩に友人が出来た。赤穂藩は新式の塩田で有名だった
重正は備前(岡山)藩主 池田光政に仕えるが禄高の関係で無断で飛び出した。それを知った水野勝成が重正を呼び戻し1644年再び福山の地に落ち着いた。
このころ赤穂藩は小藩だったが新式塩田の経営で利益を上げ注目されていた。
瀬戸内海は雨量が少ない事から塩の産地だった。
塩づくり
海岸に打ち上げられた海草に塩の結晶がついているのを発見、海草に海水をかけて
乾かすことを繰り返し、塩の結晶がたっぷりついた海草を燃やして灰にした。
その灰をツボに入れ、海水を注ぎうわ水をにつめる。これが藻塩である
次に海辺の砂にも塩分がついているのではないかと思い、海から海水をくんで砂の上にふりそそぐ、すると塩の結晶が砂つぶにつく。その砂を集めて海水をかけると濃い塩水になり、それを煮詰めて塩にする。
これを揚浜式塩田といい十世紀ごろに始まった。
ところが江戸時代に新式の製塩法が開発された。
それを入浜式塩田という。
入浜式塩田
原理は揚浜式塩田とおなじだが大土木工事で海から海水をみちびく入川をつくり、水路で海水をとりいれた。そのため海水を運ぶ手間がかからなくなり塩が大量生産できるようになった。
塩の結晶が着いた砂は「沼井」(ぬい)に集められる。塩がついた砂を沼井の中に集め海水を注ぐと濃い塩水が土管を通じて釜たき場にみちびかれる
塩田の干拓は沖に向かって多くの出島をつくるといった感じで一つの出島を「浜」と呼び6千坪あった。
浜の所有者を「浜だんな」と呼んだ。
工事をはじめて7年1667年に48の浜が完成した。
重正は塩田を作っただけでなく商人たちもこの地へつれてきた。
重正は沼隈郡の新涯奉行となりこの地に住むことになった、はじめ人々はここを本庄村と呼んでいたが、この地が神村と松崎の端にあったので「松寿永年」(しょうじゅえいねん)にちなみ「松永」と名付けた。
海岸に面した小さな村の集まりでしかなかったこの地は、数年で見違えるような大きな町になった。塩田から生まれたまち。それが松永である。