福山市議会議員 田口ゆうじ コミュニティマーブル

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【福山歴史】なぜ徳川家康のいとこ水野勝成は福山に来たのか?

水野勝成21歳の時(当時は水野藤十郎)父に勘当され放浪の旅に出る

 

 

九州で戦乱あるところ藤十郎あり

藤十郎が使えた大名

佐々成正(さっさなりまさ)

小西行長(こにしゆきなが)

加藤清正(かとうきよまさ)

黒田長政(くろだながまさ)

 

黒田長政と大阪に行く途中で備後の国、鞆の浦に着いた時に逃亡して備後の国で放浪する

1592年備中成羽城 三村親成(みむらちかしげ)に十八石で仕える。

ここで藤井道斎(ふじいどうさい)の娘お登久と結婚

 

1598年豊臣秀吉が亡くなったあと、「家康を中心に天下をまとめるか」「石田三成を中心にするか」で二つに割れた。石田三成が徳川家康の暗殺を企てている事を聞き、水野勝成は家康のもとに馳せ参じる

 

1600年関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利、関ヶ原の功績で勝成は従五位下となり官名を日向守(ひゅうがのかみ)となる。

日向は織田信長を暗殺した明智光秀が使っていた官名

 

元和5年(1619年)7月 2代目将軍徳川秀忠に呼び出され放浪時代に備後の国にいた勝成に対して徳川を良く思っていない西国の大名の見張り役として、瀬戸内海の中心にある備後十万石(深津郡、沼隈郡、安那郡、品治郡、芦田郡、神石郡、甲奴郡、小田郡)を任される。