1619年7月徳川幕府は福島正則を改易(かいえき)して領地を二つに分け、安芸に浅野長晟(あさのながあきら)、備後に水野勝成(みずのかつなり)を転封(てんぽう)した。
鉄覆山朱雀院久松城(てっぷくざんすじゃくいんひさまつじょう)(福山城)
1622年8月濠(ほり)の一部を除いて天守閣はじめ城と建物と町は完成した。
福山市は2022年を築城400年として色々な事業を取組んでおります。
城びらきは1623年正月に行われた。
徳川家康と水野勝成の関係
1564年現在愛知県岡崎市に水野勝成公は生まれる。
水野勝成の父、水野忠重の姉お大は徳川家康の母親
徳川家(もとは松平家)
徳川家康と水野勝成の祖父の時代は両家(松平家と水野家)は争っていた、が松平清康(家康の祖父)が亡くなって、水野忠政(勝成の祖父)が両家の未来のために、和解のために娘のお大(家康の母)を松平広忠(家康の父)に嫁がせた。
水野忠政の時代は両家とも今川義元と手を結んでいたが、水野信元の代で、水野家は織田家と手を結び再び松平家と水野家は対立をすることになる。その時に家康の父と母は仲が良かったのに離縁させられた。その後今川家に人質として家康(当時竹千代)は差し出される途中に織田家に襲われて織田家にさらわれる。
その後信長の兄が今川方につかまり、人質交換で竹千代は今川方の人質になる
徳川家康は今川家の人質として成長し、今川方の武将となる
そして有名な桶狭間の戦い(1560年)で今川義元は2万5千の大軍、織田信長は2千騎
桶狭間に休息していた今川義元を織田軍が急襲し今川義元を討つ
その時家康と信長は同盟を結び家康は岡崎城におちつくが1563年に三河一向一揆がおこり、一揆鎮圧のため水野忠重(水野勝成の父)は岡崎城に来ていた。
この時1564年に水野勝成は岡崎で生まれました。
この時、織田信長31歳 徳川家康23歳
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